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新すまい論

すまいはいま⑤ 映画の舞台となった公団住宅

カメラが全編住戸のなかという映画

「しとやかな獣(けだもの)」は、1962年公開の映画。監督は川島雄三、脚色を新藤兼人が担当しています。
舞台となっているのは、とある高層アパートの住戸。いわゆる公団団地が建設され始めたのが1950年代半ばであり、1958年には前川国男の設計による「晴海高層アパート」が竣工しています。1962年と言えば、「建物の区分所有等に関する法律」(通称マンション法)が制定された年で、1963年以降いわゆる第一次マンションブームが始まります。

この住戸に住むのは、元軍人の前田時造一家。時造と妻、成人した娘と息子の4人家族です。構成をみればまったくの「標準家族」なのですが、やっていることはまるで「標準」とは程遠いもの。
この夫婦、自分たちは家にいながら、息子には芸能プロの使い込みをやらせ、娘には流行作家の愛人として金を貢がせ、それで生活しているのです。

特にこの映画がユニークなのは、全編を通じてカメラが住戸から一歩も出ないことです。
娘の愛人の作家、飲み屋のマダム、偽外人の歌手、会社の金を使い込む芸能事務所社長、この社長を騙して不正経理をし、旅館経営に乗り出す女性社員、税務署職員など、様々な人物が登場するのですが、皆この住戸にやってきて、この家を舞台に強烈な人間模様を繰り広げます。

この「すまい」も、いわゆる家族団らんの平穏なイメージからはかけ離れています。映画の冒頭では、件の芸能事務所社長らが息子の使い込みの件でやってくるというので、飾ってある絵やテレビ、高そうに見えるテーブルや椅子を隣りの部屋に隠してちゃぶ台を出し、ガラスの灰皿をトイレ用のアルミの灰皿に替え、自分達も着古したパジャマに着替えます。

すまいの中の社会

「すまい」のなかに虚構が仕組まれ、家族がこぞってせいいっぱいの演技が展開されるわけです。映画が進行するにつれ、家や家族のイメージは解体されていきます。すまいはこの家族にとっての生産の場であり、家族の構成員は、家族というより個々に財を獲得するための役割を演じます。ときに、やってきた「商売」相手との会話をそれぞれが盗み聞きをしたりします。これはもはや社会そのものです。

ここで、本ブログ1回目で試みたゲームを想起してみましょう。家の中でする行為を思いつくだけ列挙し、そのなかから家でしかしない行為を見つけるゲームです。このとき、意外なことにほとんどの行為が網からするりと抜けていき、わずかなものしか残りませんでした。
たとえば、最も基本的な「食事」「睡眠」「トイレ」などにしても、いまや外のファミレス、居酒屋、ホテルや旅館、公共施設のトイレなど、できるところは住宅の外にいくらでもあります。
動物の巣のほとんどがそれをつくる目的とする「子育て」にしても、デパートには授乳スペースが用意してあったりしますし、最近では、託児ビジネスも盛んになりつつあります。そもそも、住まいに必要な機能が、社会のいたるところに構築されているのです。

逆に、「パソコンをする」「電話をする」「メールをする」「友人をよぶ」などは、すまいのなかでする行為であると同時に、すまいの外、地域や社会とつながる行為、活動でもあります。

現代ではインターネットにより、すまいにいながら社会のさまざまな人やサービスとつながることが可能です。友人や仲間とのコミュニケーションはもちろんのこと、株や金融取引、国際的なビジネスだってできるのです。実際、在宅勤務も特殊な勤務形態ではなくなってきています。
社会はすまいに必要な機能を備え、すまいが社会化しつつあるのが現代なのです。社会とすまいの境界は、限りなくあいまいになりつつあります。

川島雄三が「しとやかな獣」で描いてみせた、当時においては奇天烈な家族模様は、実はこうした現代の状況を予言して見せたものではなかったでしょうか。この映画において、家族構成員は、当時のコモンセンスであった「家」や「地縁」、「家族のなかのヒエラルキー」といったイメージがいったんばらばらに解体され、一人ひとりに与えられたビビッドなキャラクターに基づいて再構成されています。そしてその際、それぞれの社会活動において重要な取引相手が、パラメータとして組み込まれています。

公団住宅の風景

映画のエンディング近く、一連の「事件」が終結したあと、窓外に広がる一面の夕焼けを背景に、娘と息子が踊り狂うシーンがあります。
大音量に包まれるなか、それをとがめるでもなく、傍らで黙々と食事をする夫婦。
視線を斜に落とし、わずかにほほ笑むかに見える妻の表情が、凄みをもって心象に刻まれます。

建設が始まったばかりの、晴海高層アパートに象徴される公団住宅は、庶民にとってはまことにハイカラな存在であり、高嶺の花でした。そうしたモダンな住居の一室に蠢く「獣(けだもの)たち」の一団を想像し、それによって現代から未来まで時代を照射して見せたこの夭折の監督の才能には、ただ驚くほかはありません。

ちなみに、舞台となっているのは建設されて間もない晴海団地と思われますが、前川の高層アパート(10階建て)ではなく、5階建ての棟のようです。室内のカットは、自在なカメラアングルがとられており、スタジオで巧みに組まれたセットが使われたようです。

映画は、晴海団地の遠景を象徴的に望んで終わります。
それは、確かになにかを暗示し、その暗示は未来に続いています。

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