すまいはいま④ 場の占有の意味=夫婦の居場所
今回は、場を占有することについて、すまいの内部ではどうなっているのかについて検証してみます。
まずは、法律関係について整理してみます。
分かりやすいように、図にまとめてみました。
いわゆる標準世帯のケースで、夫が住宅の所有者で、住宅ローンを支払っている場合を考えてみます。
この場合、
・ 夫は、住宅を所有し、民法206条に従ってこれを使用(占有)し、収益及び処分をする権利を有する。
・ 妻が住宅に居住する権利については、民法で明示的に規程されていない。居住の根拠について日常生活で顕在化することもない。相続については、婚姻が継続されている場合に限り、住宅を相続する。
・ 妻は、婚姻に基づき同居、扶助義務等を負い(民法752条)、同居義務に基づき住宅を占有する権原があると解せられる。
ということになります。
したがって、夫婦である間は、たとえ喧嘩をしても夫から「おれがローンを支払い、所有しているのだから、出ていけ」などとは、口がさけても言えないわけであり、妻の居住は保障されています。
しかし、なんとなくすっきりしません。居住が権利ではなく義務であるとはどういうことでしょう?
ここで思い出すのは、所有の歴史をめぐるジャック・アタリの言葉です。アタリによれば、女性は土地、貨幣などとともに所有の対象となる多産財のひとつとされています。
言葉を変えれば、次のようにも理解できます。
夫は住宅(多産財である土地を含め)を所有し、占有する。そしてまた多産財のひとつである女を所有する。所有された女性には同居する義務が課せられる。したがって女性の居住は婚姻関係に依存し、婚姻関係が続いていれば保障されるが、ひとたび婚姻が消滅すれば、居住する権利も相続する権利も失う。
なんという不平等でしょう。
現代の日本においてこのようなことがまかり通るのでしょうか。
元来、婚姻については、日本国憲法のもと、それまでの封建的な家制度をとり除き、男女の平等を基本に定められたはずです。民法は、男女・夫婦の平等を前提に、当事者の合意によって家族に関するさまざまな事柄を決定することになっているのではなかったのでしょうか。
しかし、ここには落とし穴が潜んでいます。
二宮周平氏は、次のように指摘しています。
「協議と合意を優先する法構造は、社会規範と当事者の力関係によって合意が形成されることを許容する。たとえば、雇用労働者であった妻が、夫の勤務条件や場所的制約、出産・子育てを考えて、主婦婚を選択した場合、家族法のレベルでは、夫は職業労働による生活費の負担、妻は現実の家事・育児労働による負担として、双方とも婚姻費用分担義務の履行があったとされ、このような役割分担も夫婦の同居協力義務の一形態として法的に承認される。ところが、夫婦別産制(民法762条)の下では、夫の職業収入は夫の特有財産としてすべて夫に帰属し、妻の家事・育児労働は無償であるため、妻の夫への経済的依存関係が作り出され、妻は夫の被扶養者として従属的な立場に置かれる。経済的に優位な夫が家族に関する事項の決定権を握る。まさに夫は「主人」(と)なる。」
二宮周平「中立性の原則と公的介入・支援」(日本女性法律家協会会報(2014-06))
もちろん、夫婦の合意によって、まったく平等な家族関係を構築していくことも理論的には可能なわけですが、合意にひそむ力関係の容認によって、ジェンダーによる役割や生活意識の差異が生み出されていると考えられます。
それはたとえば、夫婦間のコミュニケーションについての意識の差に表れています。
女は、常に婚姻関係の安定性を確認する必要があって、夫との一体感が必要であって、そのための関係の調整が重要となります。このためには夫婦間のコミュニケーションへの要求が、夫よりもはるかに大きいはずです。
実際、既婚女性によって夫婦関係満足度は主観的幸福感を規定する最も大きな要因であり、なかでも専業主婦にとってその良否は精神的健康を大きく左右するといわれています(伊藤・相良・池田、2004)。それゆえ子育て期にある無色の妻にとって、夫とのコミュニケーションが物理的にも心理的にも保障されないと、夫婦関係満足度の低下を介して精神的健康の低下を招くことになります(伊藤・相良・池田、2006)。
中年期になると、夫のほうも話を聞いてくれる妻の存在が重要となるのですが、子育て期に夫が妻の話に耳を傾けず、家事育児に参加しないと、妻の夫に対する愛情が急速に冷め、そのときになって家族や妻と関わりを持とうとしてもうまくいかないことが報告されています(池田、2004;伊藤、2006;難波、1999;吉村、2002)。
すまいを構える主要な目的が、「場を占有する」ことであるとすれば、そしてそれが家族の構成員すべてについても言えるとすれば、家族構成員の間でそれをどうシェアするかが問題となります。それが闘争によって獲得されるのでなければ、不断のコミュニケーションがきわめて重要になるわけです。