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新すまい論

旧井上邸とアントニン・レーモンド

旧井上房一郎邸を訪ねて

高崎駅にほど近く、高崎市美術館の敷地の一角に、高崎の実業家井上房一郎が遺した自邸が移築・保存され、公開されています。
街中の喧騒をのがれてひっそりと建つこの住宅は、アントニン・レーモンドの自邸を写して建築されたもので、原建築なきあとレーモンド建築の魅力を伝え続ける建物として知られています。

井上房一郎は、地元高崎で家業である土木建築業を東証二部上場企業に成長させるとともに、群馬交響楽団、群馬音楽センター、群馬県立美術館の設立などに深くかかわり、その生涯を文化支援=パトロンとして全うし、高崎の文化の礎を創った人物です。
ブルーノ・タウトが来日した際、井上工芸研究所顧問として高崎に招き、住居を提供したことでも知られています。

1952年、高崎の自邸を焼失してしまった井上は、戦前から親交のあったレーモンドが1951年、東京・麻布に建築した自邸兼事務所を忠実に写そうと考え、レーモンドの快諾を得て図面の提供を受けると、これをもとに1952年、新たに井上邸を建築しました。

この辺の経緯、建物の建築的側面については、日本建築学会の「旧井上房一郎邸の保存に関する要望書」に詳しく書かれているの
で、引用します。

井上は、第二次世界大戦前からレーモンドと交友関係にあり、第二次大戦後再来日し、建築活動を開始したレーモンドの笄町の自邸も訪れており、その建物に強く感銘を受けていた。おりから自邸を焼失した井上は、レーモンドの許可を得て笄町の住宅を実測させ、それをもとに新たな自邸を設計した。したがって、住居と事務所から構成されていたレーモンド自邸とは異なり、井上邸は住居部分のみからなっている。また、中庭と居間、寝室の関係が両者では逆転している。さらに、井上邸には和室も加えられていた。それにも関わらず、柱筋が外壁とずらされた平面計画、柱や垂木を二つ割りの丸太で挟み込む構法など、いわゆるレーモンド・スタイルの特徴がよく踏襲されており、原設計レーモンド、実施設計井上ともいうべき、両者の建築的意図と表現の融合された作品となっている。
レーモンドが日本の近代建築に果たした貢献はよく知られるところである。井上の委託に応えレーモンドが設計した群馬音楽センターは、高崎を代表する建築であるだけでなく、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査及び保存のための国際組織」(DOCOMOMO)の日本を代表する近代建築作品、二十(DOCOMOMO二十選)のうちのひとつに選ばれている。井上邸だけでなく、群馬音楽センターをとおして、レーモンドは群馬の建築文化と分かちがたく結ばれている。
井上邸は、単に井上とレーモンドの関係から捉えられる建物ではない。レーモンドの笄町の自邸が存在しない現在、井上邸はレーモンドの住宅空間を彷彿させるだけにとどまらず、日本の近代建築史においても、重要な位置を占める作品ということができる。
(「旧井上房一郎邸」についての見解 社団法人日本建築学会 建築歴史・意匠委員会 委員長 高橋 康夫 2002年)

日本ではとてもファンの多いアントニン・レーモンドですが、この旧井上房一郎邸は、レーモンドの住宅建築の魅力をあますことなく堪能させてくれます。
ひとことで言うと、それは空間のなんとも言えない「気持のよさ」です。とげとげしい建築的主張に違和感を覚えることなく、空間を構成するすべての要素が肌になじんでくる感覚があります。

麻布の自邸のパティオで、愛犬とともにくつろぐアントニンとノエミ夫妻の写真が残されています。
いったいこの「気持のよさ」は、どこからくるのでしょう?

レーモンドは、フランク・ロイド・ライトに伴われた最初の来日期間(1919~1937年)、とくに岐阜県の民家を訪ねて影響を受け、
有能な大工とのネットワークを形成したと言われています。
レーモンドは、日本の民家の構造や材料、建設技術等を研究し、外壁がオフセットされた平面、「鋏み梁」などの特徴を持った独特のスタイルを生み出しました。このスタイルは、戦後の日本での活動期間まで変わらず受け継がれました。

しかしながらこのスタイルは、日本の民家を参照しながらも、それとはまったく別の方向を向いているように見えます。
日本の民家においては、どっしりとのしかかる大屋根がもっとも存在感がありそれはまさに「太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ」(三好達治)のですが、レーモンドは屋根におしつぶされそうな空間にこそ、透明感と開放感を見出し、それを自然のなかに開放したのでした。

こうしたレーモンド建築の原点が、1933年に竣工した「軽井沢の夏の家」と言われていますが、これと関連してレーモンド建築の魅力を探るヒントとなる興味深い資料があります。谷崎潤一郎の『陰影礼賛』です。

レーモンドと谷崎はほとんど同年代で、谷崎が2つだけ年上です。
陰影礼賛が書かれたのは1933~34年にかけてであり、「軽井沢の夏の家」の竣工年と一致します。レーモンドと谷崎は、確かに同時代を生きていました。
『陰影礼賛』のなかに、西洋と東洋の建築を比較した記述があります。

さようにわれわれが住居を営むには、何よりも屋根という傘を広げて大地に一廓の日陰を落とし、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。もちろん西洋の家屋にも屋根がないわけではないが、それは日光を遮蔽するよりも雨露をしのぐための方が主であって、蔭はなるべく作らないようにし、少しでも多く内部を明かりに曝すようにしていることは、外形を見ても頷かれる。日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔を小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。

案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いということに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、かえってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。しかるに進取的な西洋人は、常に良き状態を願ってやまない。蝋燭からランプにランプから瓦斯灯に、瓦斯灯から電灯にと、絶えず明るさを求めていき、わずかな蔭をも払いの除けようと苦心をする。

谷崎がレーモンドの建築を知っていたかどうかは定かではありませんが、日本の民家建築とモダン・ムーブメントのなかのレーモンドの建築との差異を、見事に指摘しているように思えてなりません。

谷崎によれば、明るい空間の住人は「進取的な西洋人」であって、それは冒頭に示した麻布自邸でくつろぐレーモンド夫妻の姿に重なります。
日本民家の伝統的架構を用いながら、それとは対極の軽やかな空間をつくり出し、また自らが都市生活者としてそのモダニスト的生活を実演して見せてくれたところに、レーモンド建築の大きな魅力が隠されているように思えます。

井上房一郎もまた、こうしたモダニストとしての生活を体現できる限られた一人だったに違いありません。

高崎市美術館
高崎市八島町110-27
TEL 027-324-6125

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